関ケ原の戦いの後、1601年に桑名10万石に封じられた本多忠勝の像。
この場所にはもともと桑名三城の「東城」と呼ばれる小城があったが、
忠勝はそれを元にして揖斐川沿いに見事な城郭を整え、
四重六階の天守をはじめ、実に51基の櫓、46基にも及ぶ多聞を構えた。
この普請には「徳川四天王」の井伊直政も家臣を動員したと言われる。
現在、桑名城は破却され公園としてその名残を留めるのみとなっているが、
城門および三の丸御殿などは市内各所に移築され、現存する。
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そんなわけで、関ケ原東西武将隊・東軍のみの桑名遠征。
九華公園(桑名城址)に来たのはこれが初めてなので、
いろいろとガイドしてくれるというならありがたい限り。
まずは恒例の演舞をBGM無しの東軍のみバージョンで。
忠勝がしょっぱなから動きを間違えるというハプニングもありましたが、
なんやかんやで最後も間違えつつ(…)だらだらと終了。
よく見たら忠勝、かなりお疲れのご様子。夜行バスで睡眠不足?
約一名、すでに疲れきってる武将がいるのが気になるところですが
最後は元気に「Yeahーーーーーーーーyasu ぅ!!!!!」で締め。
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まずは、はじめて武将隊を見に来たという地元の方に向けての自己紹介。
この場にはいない西軍三名のことなども説明しつつ、
活動内容の紹介に入ろうとしたところ……
家康「わしがら普段、どのような活動をしておるかということを わしのかちんたち(家臣たち)から……」まさかのしょっぱなから噛んでしまう家康。
家康「ここ、カットでお願いいたす」指でチョキチョキとポーズをとる家康。
家康に促されて活動内容の説明に入る直政と忠勝。
直政「今のは本当についさっき決めたパフォーマンスじゃったから なんかもうグダグダになってしまったが、 ちゃんとした演舞は日曜日に見せられると思うので……」直政がリードしつつ日曜日の説明をしていく東軍。
後ろで見守っている家康が妙にかっこいい。
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城跡ツアーに移る前に、忠勝像の前で三人そろっての記念撮影。
直政側のポジションで立っていたので、どうしても直政ばかりに……。
背後の紅葉と相まって、なかなか渋くてかっこいい写真になりました。
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本多忠勝の銅像と忠勝。
忠勝と見比べると、像と背後の蜻蛉切りがいかに大きいかが分かります。
この像は平成2年に設置されたのだとか。
せっかくなので像と同じように座ってポーズを取ろうと言うことに。
膝に乗せる刀がない忠勝に、直政が愛刀を貸し渡しているところ。
蜻蛉切はさすがに自立不可能なので、後ろで直政が持つことに。
膝をついて刀持のお小姓のようにかしこまってみせる直政。
忠勝「ありがとう直政」直政「本多忠勝家臣・井伊直政!って感じですな」------------------------------------------------------------
▼三の丸、二の丸、本丸写真撮影のあとは公園内のみどころを説明されつつ散策。
当時の石垣は外堀にしかないと思われていたが、
本丸から二の丸に渡る橋の近くにもわずかに残っていた。
桑名城から石垣がなくなってしまったのは、
明治維新後、破却された城から建材として運び出したためらしい。
忠勝「当時は大きな石を運ぶ手段が限られておったから このような海に直結した城から船で運び出されたというわけじゃ。 戊辰戦争での遺恨もあったんじゃろうが……」直政「桑名はひどい目にあったというわけですな」家康「三番目の堀には、今も当時の石垣が残っとるらしい」ニの丸に残されている石からは、
普請の応援を出した諸大名の紋印などが見ることができる。
こちらは「丸にふ」の紋。ほかに「菱に三」などの天然石もある。
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東軍の説明を聞きつつ縄張りを確認。
本丸周辺は当時のままの幅を保った堀に囲まれているため、
橋によって辛うじてつながっている飛び地状になっている。
背面は揖斐川という天然の堀があるため
平城ながら攻められにくく工夫されている縄張りに思えた。
しかし堀の水が淀んで水面の色が濁っているのが気になる……。
現在はあまり水流が良くないのかもしれない。
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▼鎮国守国神社松平定綱(鎮国公)、松平定信(守国公/楽翁公)を祀る神社。
天明4年(1784)白河城内に松平定綱を祀ったのが始まりと言われ、
文政6年(1823)白河から桑名へ移封にともない桑名城本丸に移った。
定信は吉宗の孫、田安徳川家の七男として誕生した。
兄弟のなかでも群を抜いて出来がよく、
将軍候補と噂されるほどであったという。
白河藩に養子に出されるが、のちに藩老中首座・将軍輔佐の座まで上り詰め、
祖父の行った享保の改革を手本に田沼意次派の一掃に務めて神格化された。
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▼天守台(天守跡)忠勝「ここが天守のあった場所じゃ。 もちろんここで暮らしておったというわけではないぞ! 住んでおった屋敷は別にある。こんなん狭すぎじゃ!」本多忠勝時代に建設された天守台。
四重建(内部は六層)で、高さは石垣を含めて9間5尺6寸と言われている。
元禄14年(1701)の火災で町内・城内の大半が焼失し、
天守閣も焼失して以後は再建されることがなかった。
天守閣跡に設置されているのは「戊辰殉難招魂碑」で、
大政奉還後の混乱の舞台となった桑名城跡に明治20年(1887)に建立された。
天守台の階段の上で3人揃ってポーズ。
直政「なにやらこう……」忠勝「わしらすっごい上から目線じゃな」------------------------------------------------------------
▼朝日丸直政「桑名という町はな、忠刻と千姫の出会いの場所といわれておって
ちょうど七里の渡し跡、あのあたりで出会ったとされておる。
すぐ近くだからまだ見ておらんよという者は立ち寄ってほしいな」忠勝「朝日丸というのは、あちらからちょうど朝日が見えるということから そう呼ばれるようになったと言われておる」大坂城落城後、江戸へ向かう千姫は「七里の渡し」で船に乗った。
このとき船頭を務めたのが忠勝の孫にあたる・本多忠刻。
宮本武蔵などに師事するなど武芸達者だった忠刻に惹かれた千姫は、
江戸へ帰るなり祖父・家康に願い出て忠刻と再婚。
桑名城の朝日丸あたりにあった御殿に暮らしたと言われている。
翌元和3年(1617)に本多家が姫路城に移封となったため、
松平定勝が11万石の桑名城主となって吉之丸・外朝日丸などを拡張した。
大河ドラマ「江」で、未亡人となった千姫が忠時に再嫁するシーンを見て
感動のあまりうるうるしてしまったという忠勝。
なんというセンチメンタリスト武将。
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城内をぐるっと一周して忠勝像の前に帰陣。
おわかれのフリートークということで、
明後日の武将ラジオ(東軍のみで30分放送予定)の話になる。
直政「聞いたところによると、MCがわしと本多殿(笑)」
忠勝「えっ、わしもか? わし直政だけって聞かされておったんじゃが」
直政「え、いかんですなそれは。ほんとにですか?」
忠勝と二人なら(責任の所在が曖昧になって)安心と思っていたところに
自分一人でMCをやらされると聞いて焦りはじめる直政。
忠勝「いや、わしも手伝う。今夜ネタを仕込まんといかんな」直政「まあ、こういうぐだぐだなトークを聞きたいという者がおったら 明後日ぜひな(小学校まで聞きに来てほしい)。 放送事故が起きまくりだと思うが……」直政はラジオでお客さんのリクエストに答えて似顔絵を描くつもりらしい。
ラジオなのに似顔絵。すでに放送事故の匂いしかしない。
直政「では殿、締めの言葉をお願い致します」家康「よし。ではまた桑名にも参りたいと思うので、一緒に…… あ〜……、なんじゃ、えっと、あ、もっかい!もう一回!!」家康に振った肝心のお別れの挨拶の
予想以上のぐだぐだっぷりにずっこける直政。
家康「桑名の楽しい思い出を関ケ原に持ち帰って、 また皆を関ケ原でおもてなしたいと思っておるので
早いですが今日はここまでということで……皆の者さらばじゃ〜!」直政「ありがとのー」約30〜40分程度の超ハイスピードおもてなしはこれにて終了。
このあと、東軍は武将バンに乗って商店街などを訪問したようです。
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▼おまけ:幡龍櫓(ばんりゅうやぐら)東軍のおもてなしの前に揖斐川沿いまで歩いた際に撮影した櫓。
平成15年(2003)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、
かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元したとのこと。
二重櫓であり、1階は水門管理所となっている。
幡龍櫓は「七里の渡し」に面して建てられていた桑名城の櫓の一つで、
船で桑名に入る人々が目印にしたという一種のランドマークだった。
安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」の桑名宿にも幡龍櫓が描かれている。
幡龍櫓越しに揖斐川方面を望む。
巨大な長良川河口堰が並んでいるのが見える。
おそらく三の丸だと思われる芝生の広場。
明治時代には工場が立っていたらしいが、現在は公園として整備されている。