2011年1月2日、京都大徳寺を散策した際の写真。
京都府京都市北区紫野大徳寺町・高桐院。
▲九曜紋のある瓦
▲雪の残る「楓の庭」
▲細川忠興とガラシャの墓塔・春日灯籠。
この燈籠は元は千利休が所有し、忠興と秀吉双方に請われていたもの。
利休は燈籠をわざと一部欠けさせ(上画像参照)秀吉の請いを退けた。
忠興は生前こよなく愛し,自らと妻ガラシャの墓標に指定したと伝わる。
なお、燈籠は利休が欠いた部分以外にも蕨手・灯口・横などに破損があるが
これは忠興自身が風流のためにわざと破壊したものらしい……。忠興……。
▲墓塔の傍らにあったつくばい
▲画像左の囲いが忠興の墓塔、右の囲いが細川家の歴代当主の墓
▲細川家当主の墓
初代・藤孝
五代・綱利 三代・忠利
六代・宣紀 四代・光尚
七代・宗孝 八代・重賢
十代・齊樹 九代・治年
十一代・斉茲 十二代・斉護
の順で並んでいる。
▲細川藤孝(幽斎)の墓
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三斎井戸忠興の墓に水を捧げるさいに使われる井戸
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袈裟形おりつくばい
加藤清正が朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰り細川忠興に贈呈したもので
熊本江戸間の参勤交代にも持ち歩かれたという。
殿様が物欲の権化だったせいで、ただでさえ大変な参勤交代のときに
こんな重たいものを持ち歩かされた家臣に同情する。
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意北軒
書院。千利休の邸宅を移築したといわれる。
▲松向軒
利休の茶を忠実に継承したといわれる忠興好みの茶室で、
豊臣秀吉が催した
北野大茶会の際につくった茶室を
寛永5年(1628年)に移築したものといわれる。
松向軒の名の由来は忠興の法名である松向寺殿三斎宗立から来ている。
しかし利休好みの茶室にしては広過ぎるような……。