博多から長々と電車に乗ってやってきました熊本城。
特急とか使えばもっと早かったんでしょうけどお金が勿体無くて。
行幸橋前の清正公像。
熊本城は安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて
肥後国熊本藩初代藩主・加藤清正が築城した城です。
名古屋城などと並んで日本三名城の一つとされ、
一大名の城としては国内でも屈指の規模であると言われています。
折しも桜が満開。お花見シーズンです。
しかし写真ではまったく伝わらないでしょうけどめちゃくちゃ寒い!!
うっかり「春だし九州だからあったかいよね」などと薄着してたせいで、
午前中は唇青くして、ひたすらブルブル震えるハメになりました。
奉行丸の石垣を下から見上げたところ。
よく見るまでもなくポツンと穴があいていたのですが、
特に説明もなにもなく……。ただの雨水の排水口でしょうか。
その割に樋のようなものも何もなくて詳細不明。
西手丸内側の控塀(ひかえべい)と戌亥櫓。
実は熊本城のなかで一番テンションがあがったのはこの長い塀でした。
広大さが伝わってきてわくわくします。
控塀の石柱。
姫路城は瓦つきの白漆喰の柱でしたが、こちらは石がむき出し。
熊本城の控塀は大部分が石柱で支えられています。
木柱は傷みやすく、転倒する恐れもあることから石が使用されました。
有事の際にはこの石柱の上にすのこや板を渡し、
塀上から鉄砲攻撃を行うための足場にするそうです。
天守は連結式望楼型で、こちらは大天守。
五重の天守として見られることが多いのですが、
二重目・四重は屋根ではなく庇(ひさし)とされているため、
正確には三重六階地下一階の天守になります。
下から見上げて初めて気づきましたが
熊本城の大天守は石垣の天端よりも一回り大きいんですね。
どうも、そもそも石垣に直接天守が建っているというわけではなく、
太い丸太状の土台材が無数に並べられてた上に
張り出ようにして作られているようです。
このような形状の天守は萩城にも見られ、「張出造」と呼ばれています。
大天守と小天守。
熊本城天守は1877年に西南戦争で消失しましたが、
1960年の築城350年を期に鉄筋コンクリート造りで再建されました。
復元費用には熊本市民からの多数の寄付が当てられています。
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路があります。
御殿への正式な入口であり、「闇り通路」と呼ばれています。
オ―ブが大量に写ってしまいましたが、
フラッシュ焚いたら写ってしまった砂埃で、心霊写真ではありませんよ。
復元された本丸御殿大広間内部の大御台所。
火をおこす部屋であるため、小屋裏は煙出しのある吹抜けとなっており、
巨大な丸太を使った小屋組みを見ることができます。
細川時代のものと思われる九曜紋の瓦(展示物)。
本丸御殿の縁側。
大広間の南側に配置された縁側は「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の
三段で構成され、その幅は約6mあります。
本丸御殿の昭君之間。
本丸御殿の中でも一番格式の高い部屋で、
藩主の居間であり、接客の場としても使用されたと考えられています。
室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
ぶれてしまいましたが、壁や襖などには
中国の前漢の時代の美女・王昭君の物語が描かれています。
王昭君は漢の帝の妃のひとりで後宮のなかでも抜きん出た美女でしたが、
手違いで北方異民族・匈奴(モンゴル)との和睦のために、
匈奴王・呼韓邪単于に嫁がされてしまいます。
その後、呼韓邪単于が死ぬと匈奴の風習に従って
その義理の息子・復
株累若鞮単
于に
嫁いで二女を
儲けました。
中国の儒教思想では女性の再婚は不実なものとされていること、
また当時のモンゴルが中国からすれば辺境の異民族だったことから
蛮族に嫁がされて二夫にまみえた悲劇の女性とされています。
この昭君之間は、「しょうくんの間」の隠語で
すなわち将軍となるべき豊臣秀頼のための間であるという説があります。
いわゆるとんでも説のようにも思われますが、
城主が日常的に使用していたわけではない事は明らかとなっており、
上級の賓客を長期間滞在させるものであったと推察されています。
清正が想定する自分より上級の賓客といえば
最も有力なのが豊臣秀頼ということになるでしょうか。
勅使や将軍下向に備えて作った貴賓室であるという説や、
清正にとって深い敬愛の対象である豊臣秀吉を偲んで作ったという説、
さまざまな説があり現在でもその目的は謎のままです。
王昭君以外にも美しい襖絵などが堪能できます。
花鳥風月がモチーフになった襖絵はどれも美しく見応え満点。
ふたたび大天守。
こちらは小天守。
小天守は文書によれば夫人のための住居として建てられたとされ、
地下には井戸が掘られるなど生活のための要素を多く持っていたようです。
現在は大天守同様に鉄筋コンクリート製で再建されています。
築城当時の城郭の姿を再現したミニチュア。
超巨大要塞というほかありません。まるで迷路です。
大天守からの眺め。
石垣の上には武者走が設けられているのがわかります。
地上を歩く観光客と、石垣の巨大さの対比がすごい。
天守から見た宇土櫓。
三重五階地下一階で、大小天守を除いて最大の櫓です。
最上階に外廻縁が設置されています。
宇土城の天守を移築したものと言われてきましたが、
解体修理の際に移築の痕跡が見られなかったことから
清正の創建した初代天守ではないかとも推測されています。
反りが美しい清正流石垣。
二様の石垣といわれる石垣。
手前の石垣は初期算木積で角度が緩やかなのに対し、
奥の石垣は加工技術が円熟し、
急勾配の反りが可能になった1600年代の算木積とされています。
飯田丸五階櫓。
西南戦争前に陸軍により破却された櫓ですが、
2005年に木造復元によって再建されています。
宇土櫓。
内部が暗過ぎて写真がとれなかったのですが、
柱に手斧で削った痕があったり格子窓があったりと見どころ満載。
なんか傾いてる……?
掘側から。
加藤神社でみつけた大河誘致の呼びかけ。
加藤清正で大河はいろんな意味で難しいんじゃないかな……。
ゆるキャラの清正くんというのもいました。
でもこれ着ぐるみではなくて絵なんですけどね。
二の丸広場から空掘の下に降りてみました。
空堀が広すぎて、もはや堀というよりちょっとした公園です。
戌亥櫓。
桜がとにかく綺麗でした。