2010年2月14日に企画展目当てに訪れた時の写真。
岡山市丸の内二丁目・岡山城。
「岡山の戦国時代展」のために訪れた岡山城。
残念ながらどんよりとした曇り空なので、要所だけパパっと見学。
岡山城は戦国時代に備前・美作・備中を掌握した宇喜多氏が本拠とし、
その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われた城です。
岡山市内を流れる旭川を天然の水堀として、
隣接する丘陵地が城郭として整えられていきました。
天守は太平洋戦争の戦火で焼け、
現在は外観復元されたコンクリート製の天守になっています。
入母屋の大屋根が印書的な4重6階の複合式望楼型で、
初重の平面形状が不等辺五角形に歪んでいるという特徴から
信長の安土城天守、秀吉の大坂城天守を模しているという説があります。
黒漆塗の下見板がなんとも渋い外見。
この印象から岡山城は「烏城(うじょう)」ともあだ名されていました。
いわゆる関ケ原以前の「秀吉期の黒い城」の特徴を備えた天守です。
岡山城を近世城郭に整えたのは父・宇喜多直家の遺領を継ぎ
備前57万石の大大名となった宇喜多秀家でした。
秀家はおよそ8年をかけて各郭や河川を整えると、
城下町を拡張して商人を誘致。経済の活性化に努めました。
築城には義父となった秀吉の意向も働いていると言われています。天守内の窓からみた金の鯱鉾。
天守内は博物館になっていて、
モニターに向かって答える小学生向けのクイズコーナーがあったのですが、
金斗雲に乗って飛ぶ無数のお城という謎のムービーが流れていました。
このクイズはかなりの誰得具合なので、来城の際は全問題やるべきです。
池田時代の輿(再現)。
自由に乗ったり触ったりすることができます。
扉に描かれた家紋がなんともユーモラス。
輿の内部が見られて満足ですが、あまり乗り心地はよくなさそうです。
平安時代には牛車があったのに、
なぜ時代が下ると輿になっちゃったんですかね???
日本の狭い道路事情などと関係があるのでしょうか。
城主の部屋(再現)。
切込接の石垣は、石垣加工技術円熟期の池田時代のもの。
奥に見えるのは恐らく六十一雁木下門。
噂の秀家時代と秀秋時代が混ざっている石垣。
中央の木から右斜め下に向かって詰みの境界があらわれています。
拡大すると境界がくっきり。
右の丸っこいのが小早川秀秋、左の角ばっているのが宇喜多秀家。
秀秋側アップ。
秀家側アップ。
秀家時代の石垣の果て。
算木積みではなくて小さめの石が使用されています。
廊下門をくぐったあたりの風景。
地層をこんなふうに見せてるお城なんて初めて見ましたよ……。
不明門。
------------------------------------------------------------
■追記後日晴れた日に訪れた岡山城はこんな感じでした。