写真倉庫のようなもの

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

【高槻】高槻城

2012年11月23日に高槻城とその城下町に訪れた際の写真。
大阪府高槻市城内町・高槻城跡。



高槻駅方面から南へ下って高槻城の遺構の残る城下町へ。
------------------------------------------------------------

■高麗門




高槻駅と高槻城跡のちょうど中間にある日蓮宗の仏教寺、本行寺。
かつて高槻城で使われていた本瓦葺の高麗門が移築され現存しています。

------------------------------------------------------------

■カトリック高槻教会



本行寺から高槻城方面に数百メートルほど下ると、
カトリック高槻教会があります。

カトリック高槻教会の聖堂は<高山右近記念聖堂>として知られ、
高いドーム状の屋根が印象的な建物は、
キリシタン大名・高山右近がその生涯を終えた地、
マニラ市郊外のアンティポロにある聖母大聖堂に模して設計されました。



イタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニの手によるエスト高山右近の像。
エストはポルトガル語で「正義の人」を表すキリスト教の洗礼名で、
日本語では"ユスト"とも"ジュスト"などとも書かれます。



戦国時代、高槻城は熱心なキリシタン信徒だった
高山友照・高山右近の親子が城主を務め、
最盛期には2万5千人の領民のうち半数を超える1万8千人を
キリシタンに改宗させたことで知られています。



教会の敷地に聳える高山右近記念碑。
1946年、当時の田口芳五郎司教が戦災復興の願いを込めて建てたもの。



教会の建物の壁面には高山右近のレリーフも。
以前は2階の屋根の下に取り付けられていたようですが、
建物が新しくなった際に歩道から見える位置に移動したようです。

------------------------------------------------------------

■永井神社



高槻教会に程近い、野見神社の境内のなかにある永井神社。

寛政5(1793)年8月に9代高槻藩主・永井直進が初代直清を祭神として創建。
嘉永元(1848) 年に、11代直輝が初代直清の高槻城入城200年を記念し
社殿を修復、併せて唐門と拝所を造立しました。
江戸時代の建築様式をよく表す高槻藩の歴史遺産として
指定文化財となっています。



唐門はごく最近になって修繕され、非常に美しい状態を保っていました。





唐門の彫刻は拝殿の拝所彫刻とあわせて、
江戸期の建築における彫刻装飾の優品と評されています。

------------------------------------------------------------

■高槻市商工会議所



天正年間の宣教師ルイス=フロイスの著書『日本史』によると、
現在の高槻市商工会議所の敷地には会堂、宣教師用宿舎、庭園、大十字架、
そして神学校(セミナリオ)などのキリシタンの諸施設があったとされ、
発掘調査などによりそれが裏付けされつつあります。



1990年代後半、マンション建設のために高槻城跡地を発掘したチームが、
三の丸北郭、外堀の内側に面したこの近辺から、
木棺25基と11人分の人骨、そしてロザリオなどを発見しました。

高槻市埋蔵文化財調査センターが発掘と調査にあたったところ、
地層や木棺のふたに書かれた十字架の墨書きにより、
右近時代に作られたキリシタン墓地だったのではないかと推定されています。



植え込みのなかに無造作に転がっていた石は、
高槻城の石垣だったもののようです。

------------------------------------------------------------

■高槻市立しろあと歴史館




高槻城三の丸跡に建ち、高槻市の歴史資料を展示している博物館。



常に戦国時代の展示がされてあるというわけではないのですが、
「南蛮との出会い−高山右近と大友宗麟の時代−」
という企画展が公開されていたので立ち寄りました。
キリシタン大名好きには垂涎の資料が多数展示されていて、
特に螺鈿細工などは現物をじっくり見ることができてラッキーでした。

------------------------------------------------------------

■思案石



2012年の春に市民会館近くの道路から掘り出され、
高槻市立しろあと歴史館の敷地に移動した「思案石」。


名前の由来は、かつて高槻城のお堀へ身を投げて死のうとした人たちが、
死ぬ間際にこの石に座って色々と想いを巡らしたためと言われています。
実際に当時の古地図と照らし合わせると、
石は高槻城の堀のすぐそば、鬼門の方角に埋まっていたようで、
動かすと災いが起こると、長らく道路に埋まったままになっていました。



丁重に供養されて移動してからは、
しろあと歴史館の庭で大事に扱われているようです。

------------------------------------------------------------

■東大手門(大手御門)跡



高槻城の東大手門は城の中でも最も重要な場所だったとされていて、
門の内には家老や郡奉行などの屋敷が並び、
参勤交代などで江戸や京都に向かうときは、
供揃えをしてここから出門したと言われています。

------------------------------------------------------------

■城跡公園



高槻城三の丸跡に位置する城跡公園。
城跡のお堀を模した憩いのスペースや、 芝生を中心とした広場、
および歴史民俗資料館などが設けられています。



こちらは特に遺構が見られるというわけではないのですが、
右近像があるということで立ち寄りました。



公園は想像していたよりずっと規模の大きいものでした。
お城の堀を模している池や橋が散歩にちょうどよさそう。



天守台を模したような露台もあります。



公園の北西にある十字剣を持つ高山右近の銅像。
美術彫刻家・西森方昭氏の作。



香川県民の私にとって、
この像はカトリック小豆島教会のイメージが強いです。
小豆島教会の右近像は、大阪カテドラルの右近像が移転したもの。
高山右近を通じていろんな県が結びついていくのが面白いです。



なんか私の思ってた高槻城と違う。

------------------------------------------------------------

■永遠の友好の碑



公園の片隅に「永遠の友好の碑」という石碑が佇んでいました。

平成5年3月に高槻市制施行50周年記念して建てられたもので、
島根県匹見町、フィリピン・マニラ市、中華人民共和国・常州市、
オーストラリア・トゥーンバ市、福井県・三方町、
そして高槻市の名前が刻まれています。

高山右近は晩年、キリシタン排斥を進める徳川家康に改宗を迫られ拒否。
フィリピンはマニラに追放され、異国の地で熱病に侵され死去しました。

------------------------------------------------------------

■高槻市立第一中学校



公園と並び、三の丸の跡にあたる高槻市立第一中学校。

------------------------------------------------------------

■高槻城跡の石碑



高槻市立槻の木高等学校前の交差点の隅にひっそりと立っていました。

------------------------------------------------------------

■高槻市立槻の木高等学校



高槻城・本丸と天守閣は、
現在の高槻市立槻の木高等学校の校庭にあったと言われ
1976年の体育館建設の事前調査で発見された
当時の台石が校内の東側通用門側に展示されているそうです。

------------------------------------------------------------

■高槻市民グラウンド



二の丸跡にあたる高槻市民グラウンド。

スポンサーサイト

<< 【船場】少彦名神社の神農祭 | main | 【天王寺】安居神社 >>