2009年11月30日に讃岐十河城跡に行った際の写真。
高松市十河東町・称念寺。十河氏。
十河城は讃岐国の土豪・十河氏の居城です。
戦国時代には十河存保が城主をつとめました。
天正10年から四国統一を進める長宗我部元親らに強襲を受け、
天正12年、引田城の攻防で讃岐側が敗れたことをうけて落城しました。
その後、十河城は長宗我部家の手に落ち、
一時は長宗我部親武が城主として入城しましたが、
天正14年に豊臣秀吉による四国征伐がなされると十河氏は復権し、
十河存保が再び城主に返り咲きました。
しかし十河存保は秀吉の九州征伐に従軍した際、
島津氏との豊後戸次川の合戦にて長宗我部信親らと共に討死。
その後、嫡子も謎の死をとげ十河氏は滅亡しました。
現在、十河城のあった一帯は称念寺という十河氏ゆかりの寺になっており
遺構は本丸と堀を残すのみとなっています。
九州で十河存保らが非業の死を遂げたその日、
城下に甲冑に身を包んだ存保ら一行の姿があらわれ、
一行が無事に帰郷してきたのだと思った領民たちが城に詰めかけた……
という哀しい伝説が残っています。
十河氏はそんな逸話が残るほど領民に愛された城主だったようです。
本丸はなだらかな坂の上にあります。
高さは周辺とくらべて十メートルほど高いだけですが、
遮るもののない讃岐平野を東向きに一望できる立地です。
背後には山、西には池を配した防衛の基礎をおさえた縄張りです。
江戸時代の軍学者・香西成資の書いた『南海通記』には
大手が南側にあったこと、何重にも土塁を築いていたことなど
十河城の縄張りが記録されています。