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【香南】由佐城・横井城

2012年9月23日に香川県高松市香南のお城を訪れた時の写真。

■由佐城跡(
香南歴史民俗郷土館)

由佐城は、1300年ごろの南北朝時代に由佐秀助によって築かれ、
以後代々由佐氏の居城となった城です。

東に大河(香東川)、西に沼田のある要害の地に築かれた城で、
1583年、四国平定を目指して讃岐へ侵攻した長宗我部元親は、
由佐城を攻めたが落とすことができず和睦を提案。
以後、由佐氏は長宗我部氏に臣従することとなりました。

由佐家に伝わる城絵図からは
内堀とほぼ正方形の外堀に囲まれた8つの曲輪により構成され、
北西と南西には望楼があったと伝わっています。

豊臣秀吉の四国征伐の後、当主・由佐秀武は
讃岐国主となった仙石秀久、尾藤知宣、生駒親正などに臣属し、
九州平定、朝鮮出兵に参陣しました。

また由佐氏と安倍晴明の末裔の阿部氏とが関わりがあることから
周辺には陰陽関係の史跡がいくつか残されています。



なかなか渋い趣きの模擬天守。
天守というには小さく、規模的には隅櫓といった感じですが、
一応越前の丸岡城を参考にしているようです。



石落や狭間もないシンプルな模擬天守ですが、
木材を外壁に使用していることもあってけっこう見栄えがしました。



堀の遺構も天守同様に整備され、現在は水堀になっています。



けっこうな数の鯉が放されていました。



天守の裏側に回ると、正門と郷土館(本館)が見えます。
一見すると連結式天守のよう。



由佐城正門。
模擬天守側は古民具などを展示した展示室、
本館側は香南歴史民俗郷土館(カルチャーセンター)になっています。
正門は渡り櫓状になっていて、内部も実際に通ることができます。



門を入ったところに鎮座していた謎の機械。
治水関係の展示物だと思うのですが詳細は不明。



機械の後ろにあった「分量石」。
香南町横井の尾池で実際に使用されていたもので、
周辺集落の水田に平等に水を引き入れるために使われていました。



水を引き入れて、ちょっとした芝生の広場のようになっている中庭。



由佐城の唯一現在に残る遺構である土塁。
城の西側の塀に沿って約1〜2メートルほどの高さで続いています。



川が引かれ、手水鉢まである本格的なお庭なのですが、
雑草がぼうぼうなのがちょっと残念。
このシーズンは抜いても抜いてもきりがないので仕方ないですが……。



山頭火の句碑 「てふてふ ひらひら いらかをこえた」

自由律俳句で有名な種田山頭火は晩年仏門に入り
亡くなる前年に香川・愛媛・徳島を遍路しました。
香川県には、山頭火の句碑が実に40以上あると言われています。



庭の片隅に咲いていた曼珠沙華。



模擬天守の内部は、古民具を集めた郷土館展示室でした。



脱穀機や杵、臼、機織り機などおなじみの農村の農機具がずらり。



近代の台所用品。



粉挽き水車の模型。
水車の回転する力を歯車に伝え、石臼を回して粉に挽き、
粗い粉を引き直して最終的に均一な粉に仕上げる仕組みが分かります。
この模型は現在も高松市に残る粉挽き水車を参考にしているそうです。



駐車場に近隣の史跡などのマップがあったので、
「中山城山の墓」と「横井城跡」に行って見ることにしました。

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■中山城山の墓



スマホを片手に中山城山のお墓を探して住宅街と水田をぐるぐる徘徊。
5〜10分ほど周辺を行ったりきたりして、
ようやく川べりの鬱蒼とした林のなかにそれらしきものを発見しました。



水田のなかにひっそりと佇む中山城山とその一族の墓。
用水路の水がかつて横井城だった深い堀の中に流れ込んでいるため、
ざーざーと滝のような落水の音が聞こえていて風情があります。

中山城山は江戸時代後期の儒者。
宝暦13年に讃岐の国に、医師・中山玄柳の息子として生まれました。
医学と儒学を学び高松藩に招かれ、また城山塾をひらくなどし、
その後に讃岐の郷土史「全讃史」をまとめて藩に献上しました。

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■横井城跡



写真中央に見える特養老人ホームの付近一体がかつての横井城。

建武年間に尾池玄蕃頭保俊が築城し、
その後、横井丹後守藤原光政がに細川頼春に従って讃岐に来ると
代々横井氏が居城したといわれています。

1565年に時の将軍・足利義輝が三好三人衆によって暗殺されると、
義輝の妻は当時の横井城主・尾池光永を頼って讃岐へ逃亡。
その直後に産まれた義輝の子は光永の養子として迎えられ、
後に名を保衡と改めて横井城を継ぎました。

横井城はその後、豊臣秀吉の四国征伐で廃城になったとされています。



周辺を流れる古川はかつて城の外堀で、
現在もその深さや複雑な分岐に遺構としての名残を留めています。



完全に田畑と化してしますが、あぜ道が土塁のような気もします。



深度はばらつきもありますが3メートル前後といったところ。
住宅地と水田を分断するように縦横無尽に流れていて、
目の前に見えている場所にもなかなかたどり着けません。
お城らしいといえばらしいかなといった印象。



横井丹後守栄久のものと伝わる墓。
実質、分かりやすい横井城の史跡はこれだけでしょうか。
しかし看板もなにもないので通っただけではわかりにくい印象です。

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