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【高松】芝山城・藤尾城・大内堂

2012年8月13日に香川県高松市香西のお城を訪れた時の写真。

■芝山城跡


芝山城は、当時は瀬戸内に浮かぶ小島だった芝山に
寛永年間に周辺地域を治めていた香西資茂によって
瀬戸内海の諸島への警備のための出城として築かれたことから
始まったと言われています。

1585年に羽柴秀吉が四国平定を行うと廃城され(後述の藤尾城にて解説)、
現在城址は南北に細長い半島状の独立丘になっており、
山頂には芝山神社が建てられています。



山頂へ登る階段。
県道沿いなので麓は車が通りが多くそれなりに賑やかです。



が、登り始めるとひと気はまったくなく少しこわい。
画像のとおり、かなりの急勾配で体力も必要です。



参道脇の手水鉢。
城があった当時のものなのかどうかはわかりませんでした。



中腹まで来ると参道に手すりが設置されていました。
急勾配のため階段は申し訳程度にしか段差がなく、
起伏がないので滑りやすいため、下手な山道より危険かもしれません。



ようやく山頂付近へ。
巨石や狛犬がお出迎え。



巨石の上にある石鎚神社。

芝山には「芝山天狗伝説」という昔話が残っています。
白峰の天狗相模坊が八栗山の天狗中将坊の所に飛んで行く途中
芝山の上空で突然大風に煽られて芝山に落ちたことから、
以降相模坊は芝山の上を飛ぶときは必ず芝山で休んだという話で、
瀬戸内の沖で投網を打っていた漁師が
芝山から天狗が飛ぶのを目撃したという話も伝わっています。



山頂にはいかにも天狗がとまりそうな巨石が点在していました。



芝山神社拝殿。
祭神は大歳神、大国主命など。
かなり簡素な拝殿で、ごく最近作られたもののようです。



社殿の裏手に回るとちょっとした広場になっていました。
芝山城は芝山山頂にあったといわれており、
おそらくここが本丸にあたると思うのですが
なにせ蜂だの蜘蛛の巣だのが多かったので探索を断念。

現在は土塁が一部残るのみということですが、
一体何処に土塁があるのか……。



本丸跡にはこのような30cm程度の石がたくさん転がっていました。
城の一部として使わていたのでしょうか。



神社裏手から見える港の様子。
奥に見える島は、鬼ヶ島として有名な女木島。



神社の表側からは香西港大橋(県道16号)が見えます。



お参りをすませて下山。
かなり高いところまで登ってきていたのを実感します。
画像中央に見える森が、戦国後期の香西氏の居城藤尾城のあった場所。
このあと山から降りて向かいます。



脚を滑らせたら真っ逆さま。こわすぎる。

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■藤尾城跡



香西氏は350年以上にわたり瀬戸内海の島々を支配し、
朝鮮・明国などとの海外貿易をで栄えた中讃地方の一大勢力でした。
藤尾城跡は1575年、周辺地域を治めていた香西佳清によって
標高約20メートルの磯崎山山頂に佐科城に変わる新たな居城として
築かれたことから始まると言われています。

香西佳清は
1582年に土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて藤尾城に籠城。
香川親知を大将とする土佐軍と激戦の末に和議を結び、
1585年に羽柴秀吉によって四国征伐が行われると、
今度は長宗我部側として小西行長らと激しい砲撃戦を繰り広げました。

その後、四国が平定されると藤尾城は廃城となり、
佳清は仙石秀久らから扶持を与えられて余生を過ごしたと言われています。



現在、藤尾城のあった場所には宇佐八幡神社が建てられています。
予想以上に立派な社殿で驚きました。



こちらは本殿。
祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。



山の上ということもあって境内はさほど広くありませんでした。
正面からの階段のほかに裏手から斜面を車で登るルートもあり、
そちらのほうが戦国の城らしさを感じられるかもしれません。



遺構は残っていないということですが、
神社のヤブの奥などにところどころ古い石垣や堀のようなものが見えます。
藤尾城の遺構ではないのかもしれませんが、
曲輪らしさを感じられるポイントだと思います。

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■大内堂/作山城(つくりやまじょう)跡



香川県高松市香西南町の丘城「作山城」の跡。
付近は現在宅地開発されており、曲輪などの遺構は残っていません。
宅地に隣接する小丘に丘城としての名残を留めるばかりとなっています。
写真は丘陵を切り取ったことが確認できる北側の階段。

作山城は1575年、周辺地域を治めていた香西佳清によって
藤尾城の向かいの作山山頂に藤尾城の支城として築かれましたが、
1582年には長宗我部元親による讃岐侵攻に、
1585年には羽柴秀吉による四国平定などに相次いで見舞われ
のちに廃城となりました。



丘の上には神社のようなものが立っていました。
地図には「荒神社」、神社誌などには「大内神社」と書かれていますが、
現地の案内看板は「大内堂」となっています。



大内堂社殿。

戦国時代、周防の大内氏と友好的な関係を築いたことにより
瀬戸内海の警備や朝鮮・明国との交易で大いに勢力をふるった香西氏は、
大内義興が1520年の秋に上洛の途中で暗殺されると
義興の恩義に報いるために霊像を作り
藤尾城にほど近いこの地に堂を建立して安置しました。
社殿は大正時代に改築されたもののようです。

もっと近づいて霊像とやらを見てみたかったのですが、
夏ということで蜂はぶんぶん飛んでるし蜘蛛の巣だらけだしで
まったく近づける気がしない……。
人通りもまったくないので蜂に刺されても困ると思い
階段の下からズームで撮影するに留めました。残念。

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