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■相引川屋島と四国本土を隔てる河川。
屋島の南側を東西に流れ、両端でともに瀬戸内海に繋がっているため、
河川としては特異の「河道の両端に河口を持つ河川」となっています。
潮が満ちる時には川の水が東西両方向から満ちることとなり、
引く時には両方向へ向かって引いていく様子から、
「相引川」と呼ばれるようになったとされていますが、
東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、
源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もあります。
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■赤牛崎
当時、安徳天皇が内裏を構えていた屋島は島であったことから、
源氏はこの海峡を容易には渡って攻めることができませんでした。
そこで源義経は赤牛数十頭を放ち、人が渡れる浅瀬を探って屋島に上陸、
平家軍の陣営に攻め寄せることができたと伝えられています。
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■菊王丸の墓源氏の勇将・佐藤継信が
大将である義経の身代わりとして能登守教経の強弓に倒れると、
教経の童・菊王丸は継信に駆けより首を切り落とそうとしました。
そのとき継信の弟・忠信の弓によって菊王丸は射倒されてしまい、
教経は菊王丸をあわれんでこの地に葬ったとつたえられています。
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■安徳天皇社寿永2年(1183)、一の谷の戦いに敗戦した平宗盛は、
安徳天皇を奉じて一の谷から屋島へと落ち延びました。
安徳天皇は長門壇ノ浦に落ちるまでの約一年半、
母・建礼門院徳子、祖母・二位ノ尼と共に
この地で過ごしたと言われています。
現代の安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
安徳天皇の死後は、この地を霊所として祀っています。
源氏側の末裔と思われる方が納められた安徳天皇の額。
屋島の北東に位置するこの地は壇の浦の入江にのぞみ、
後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、
戦には地の利を得たところであったので
宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
源平屋島合戦戦死者達の墓の前の石碑。
屋島の合戦の半年前に亡くなったという、大場光親の墓。
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■景清錣引伝説合戦のさなか、太刀を折られて逃げる源氏の美尾屋十郎の兜を
平家の悪七兵衛景清が熊手で引っかけ錣を引きちぎったとされる土地。
景清の剛勇さと、十郎の首の強さを、
お互いに称賛したと伝えられています。
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■いのり岩那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射る際、この岩に
「南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の神明日光権現、
宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」
と祈ったと伝えられ祈り岩と呼ばれています。
「いのり岩」の字は、松平頼重公の臣箕輪野六の書と伝えられています。
古戦場の石碑。
住宅街の交差点の脇を、半地下状に下げて保存されています。
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■駒立岩那須与一は祈り岩で神明に祈願を終えると、
当時海の中にあったこの岩まで駒を進め、足場を定めて、
波にゆれ動く船の扇の的を見事に射落としたと言われています。
海水が流れる川(干潮時)。
潮の満ち引きにより、現代でも駒立岩(写真:赤い車の下)は水没します。
手前の巨石は、祈り岩を復元したレプリカ。
駒立岩(手前)から、扇の的のあった方向を眺めたもの。
わかりやすくパネルが設置されています。
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■洲崎寺源氏軍が負傷した兵を運び込んだという古寺。
佐藤継信の亡骸はこの寺の門扉で本陣・瓜生ヶ丘まで運ばれたといわれ、
継信の菩提寺となっています。
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■義経弓流し跡源義経が勝に乗じて戦っていると、脇に挟んでいた弓が転がり落ち、
平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられかけました。
義経は太刀で熊手をあしらいながら左手の鞭で落とした弓をかき寄せ、
当時は海中出会ったこの場所で引きあげたと言われています。
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■総門跡寿永2年9月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として
屋島壇の浦の行宮のできるまでここで門を構えて、
海辺の防衛に備えました。総門はこの遺跡です。
壇の浦に行宮をうつしてからも、
この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが
ついに源氏の占領するところとなりました。
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■射落畠源氏の武将・佐藤継信が大将・源義経の身代わりとなり、
平家の雄将・能登守教経の強弓に射落された所です。
昭和6年、継信の墓所大修築と共にこの地に柵をめぐらし池泉をつくり
射落畠碑と遠祖君乗馬薄墨碑を建立し、これをあらわしました。
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■佐藤継信の墓・大夫黒の墓源義経の身代りとなって戦死した佐藤継信の墓。
寛永20年、松平頼重公が新しく墓石を建てて、その忠死を称えました。
大夫黒は、後白河法皇から義経が賜わった馬の名前で、
継信の忠死を賞揚する余りに、
義経は馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせたと言われています。
大夫黒が倒れると、継信の墓の傍らに埋めたといわれています。