写真倉庫のようなもの

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

【坂出】鼓岡神社・菊塚

2012年5月に、坂出市中町の鼓岡神社を訪れた際の写真。

崇徳院は讃岐に配流されたのち雲井御所で約3年を過ごし、
坂出市府中町にある鼓ヶ岡の「木の丸殿」に移りました。
その後、長寛2年8月にこの地で崩ぜられたと伝えられています。

鼓岡神社の北東一帯はかつて讃岐国府があった所で、
かつては文化の中心として栄えました。
今では国司庁跡碑が残されています。

------------------------------------------------------------

■拝殿







------------------------------------------------------------

■杜鵑塚




啼けば聞く 聞けば都の恋しさに 
この里過ぎよ 山ほととぎす
崇徳院がこの地でほととぎすの鳴き声を聞き都を恋しがったため、
里の村人が院を悲しませまいとほととぎすを追い払い、
ついには殺してしまったという逸話が残っています。
杜鵑塚はそのほととぎすたちを供養するために作られた塚だそうです。

------------------------------------------------------------


瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢わむとぞ思ふ
百人一首の77番、有名な「瀬をはやみ〜」の歌碑。

------------------------------------------------------------


雲井まで たかくひびかむ さと人の 
つづみがをかに 千代よばふ声
「大正大嘗会」にあたり入江為守卿の詠んだ歌の歌碑。
皇室を呪詛して崩御した崇徳院の御霊を鎮めるため、
大正天皇即位にあたり鼓岡に歌碑を建立したものと推測されています。

------------------------------------------------------------

■崇徳上皇 御念持佛 三尊堂



------------------------------------------------------------

■擬古堂(木丸殿)



大正2年に、崇徳院没後750年祭を記念し
かつての木丸殿を再現すべく建てられたお堂。

崇徳院が過ごした当時は非常に粗末なあばら屋だったと伝わっており、
都から訪れる人もなく哀れなものだっと言われています。
「院が五部大乗経を写経し都に送ったが突き返され、怨霊になった」
という有名な逸話の、その写経を行ったのが
この木丸殿であったと言われています。

------------------------------------------------------------



神社を囲む石垣は近代のものですが、
外側に土塁のようなものもありました。

------------------------------------------------------------

■菊塚



崇徳上皇と綾の局との間に生まれた皇子(顕末)の墓と言われている塚。



大量の石は、里の村人が近くを流れる綾川からひとつひとつ積んだもの。
突出部は1mほどですが、土台の中も石が積まれているそうで、
地表部分からだと3mほどになるのだそうです。



こちらは綾の局の墓(?)。
菊塚のとなりに墓があると聞いたのですが、
それらしいものはこれだけでした。



塚のまわりには綺麗な花がいくつも植えられていました。

スポンサーサイト

<< 【木太】白山神社古墳 | main | 【高松】源平屋島合戦古戦場 >>