2012年4月29日に、高松市木太町の史跡を散策した際の写真。
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■神内城跡(木太城跡)
神内氏の居城だった神内城の城跡。
現在では高松市立木太南小学校になっています。
神内城跡の案内板。
西植田の城主・神内石見守廣忠の後裔、神内右京進影之・清定父子が、天文・天正年間(1533年〜1592年)に木太郷に進出し城を築いて住み、西植田で300石、木太で700石の計1000石を領していた。
城は木太南小学校辺りの微高地にあり、約150m四方の南面する城構えであった。城の東と南は宮川を境とし、宮川に架かっている向井橋は城への通路であった。この付近は昔から城屋敷とよばれていた。
神内氏は植田氏の一族で戦国時代には十河氏に属し、城は香西氏に属する向城と松縄城のわずか約1kmの間に位置し、戦国乱世にしのぎを削っていた。
天正12年(1584年) 長宗我部軍の再攻によって十河城は落城し、清定は領地を失った。北南小学校は周辺の土地よりわずかに高く、敷地はいびつなL字状でした。
すぐ脇には蛇行する大きな川(詰田川)が流れており、
この川を水堀として縄張りに取り入れたのだろうと推測できます。
水深は浅く、大きな鯉や亀がたくさん泳いでいました。
校門から東に50mほどの場所に設置された石碑。
神内城跡から西に100〜200mほどの場所にある神内清定の墓。
門と柵はありましたが、誰でもお参りできるようになっていました。
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■向城跡(小原神社/掘り出し荒神)神内城跡から直線距離にしてわずか300mほど。
田園地帯の真ん中にある、真鍋氏の居城、向(むかい)城の城跡。
向城は真鍋氏数代の居城で、戦国時代の1500年ごろに築城された、溝畳堅固な平城であった。城主祐主・祐重父子は香西氏に属し、兵300人を率いる武将で、家臣500人は常に農業を営み城には出仕せず、田圃に出ても武具食料を畦に備え、ただちに出陣できるようにしていた。城の名は初め奥城と言われていたが、対立する十河氏方の神内城と白山神社を挟んで東西に向かい合っていたので、向城と呼ばれるようになった。祭神:保食神 崇拝者:上川の内地区住民
祭日:10月21日(現在は10月18日)寛永14年(1637年)に西嶋八兵衛が木太の新田開発を行った時、
流行病が蔓延して多くの死者が出たのを憂い、
ここに荒神社を建て死者をねんごろに葬り祭ったと言われている。西嶋八兵衛は伊勢国津藩の藩主・藤堂高虎に仕えた家臣で、
28歳のころ高虎の孫にあたる)高松藩藩主・生駒高俊に招かれ、
以後数年の間に香川県の各地で90以上の溜池を改修・築造し、
治水・灌漑・新田開発に尽力した、香川の「水の恩人」です。
石造りの小さなお社がありました。
お社だけでなく、台座も歴史を感じさせます。
周辺はここ数年で田圃や水田が消え、
建売の真新しい住宅地になりはじめていました。
この神社も、いずれどこかに移転させられてしまうのでしょうか。
古い手水鉢。
地元の人が植えたらしき色とりどりの花。
そういえば田圃のあぜにあるにしては雑草類が少なく、
手入れが行き届いている印象があります。
周囲には深く川幅も広い用水路が流れていました。
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地元というわけではないのですが、
比較的馴染みのある琴電木太東口駅・林道駅周辺の城跡。
当時を偲ぶ遺構などは何も残っていないということでしたが、
香川県の数少ない城跡なので一度は行こうと思っていました。
どちらも大きな合戦とは無縁に見える田舎の小さな平城ですが、
主家である十河氏と香西氏のおかげでご近所ながらに対立関係あり、
長宗我部元親の四国統一で領地没収ありと中々にドラマを感じます。
近くに真鍋
祐主の墓もあったようなのですが、
車で3周ほどしてみるも発見できずやむなく撤退しました。